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学びとかjoy [2009年11月21日(土)]

今日は週末。
週末はうきうきする。
具体的には、週半ばだと夜中2時とかに起きてると次の日が憂鬱になるが、
週末だと3時でも4時でもうきうきしながら本読める。
次の日へのプレッシャーがない。

新たなステップへ営業として上がりつつあった気がする。
それはどんなに小さなものでも大事にしたい。

ヒアリングをした上で、
相手の課題を把握し、それを解決するものとして、
商品を売るのが定石。

いきなり商品をアピールしても、どこをアピールすれば刺さるかわからないから全部アピールしようとする。
それは相手にとって”関係のない話”と判断され、
理解も共感も得られない。

ヒアリングをし、相手の課題を聞きだす。
ひとつ解決できそうな課題がでたとき、すぐ食いつくのではなく、
ためてためてしゃべりだす感じ。

浅いヒアリングで課題解決の提案をすると、
別の角度から反論される。
例えば予算がないという人に対して価格の安いものをすすめたとき、
でもうちは手間がかけられないんだよね、と反論されると難しい。

だから、そこで提案をする前に手間に対しての認識を聞いておき、
先回りするのだ。
そうすると相手も自分のしゃべったことは否定できないから、
反論にならない。

基本人は人に説得されるのが好きではないはず。
それは自分の自発的な意思決定でないという認識が働くからだ。
特に不動産の社長とかその傾向が強いだろう。

ためて最後に提案というのは、
その提案にぶれがなくなるという意味でもメリットがある。

相手に自分の提案を反論されたとき、
じゃあそんなあなたにはこっちの提案がありますよ、とかいうと、
ベストの提案という意味合いが薄れ、
とにかく何でもいいから売りたいんじゃねーか、
という猜疑心につながる。

相手の課題を掘り下げ、何が課題なのか?を明確に認識し、
それを解決する解決策をシンプルにぶち上げる。
これが大事。



あと、win-winの関係を築くことはすごく大事と気づいた。
自分にメリットがある話でも、相手にメリットがないと判断した場合、
私達はそこにうそ臭さを覚える。
ある種の不信感を覚える。
相手はそんな提案をするはずがないからだ。

だからビジネス上健全な関係はwin-winなものである。

あとは、商談のときにいかに頭をクリアーにできるか。
次に何を言おう、とかてんぱるのではなく、冷静に受け答えながら
次の一手を考える。そのためには、相手の話をよく聞く。
これが本当に大事。人の前に相対しなくてもいいときの頭の回転を
商談時にもいかに使えるか。

人生はいかにわくわくすることをするか。
その感情が非常に大事だ。


営業について [2009年11月20日(金)]

営業とはなんだろうか。

何を自分にもたらしているか。
何を学んでいるか。

人脈を築く能力。
人の心を動かし、意思決定させる能力。
人間力。
人生経験の租借。
あるものに対し魅力的なアピールをする力。
タスク管理能力。
走りながら考える能力。
モチベーション維持能力。
ヒアリング能力。

よいものを学んでいるように思える。

それは将来につながっているか。

おそらくつながっている。

将来にやりたいことは、自分で始めるということを考えると、
営業経験はあったほうがいい。
とくに、新規開拓。
自分が世に新しいサービスや商品を出すとしたら、
その経験が役立つからだ。

なぜ営業をやっているのか?
なんのために?

将来やりたいことの実現のために必要なスキルのひとつを身につけるために。
なるほど。

だが今、タスク管理能力ばかりがあまりベストでない形で鍛えられているような気がする。
もっと、商談に専念できるような営業がいいのではないか。
いや、どうせ一人で始めるなら全部やったほうがいい。顧客管理から何から。

その意味ではマイナスなことなんてなにひとつない。
だったらモチベーション高く仕事を継続できる。

そのように振り返る時間が必要である。
そしてそれをこのように文字に落とすとすごくいい。
自分の頭が整理される。

ずっと頭で考えていても混乱するだけだということが最近わかった。

自分は、走りながら考える能力が著しく低い。おそらく。
走るか考えるかになってしまっている。
今は走らざるを得ないので走りながらキャパの低いところで考えるになっている。
もっと落ち着こう。現状のキャパでてんぱるのではなく、
キャパを広げることを考えよう。
そのためには?
タスク管理への脳の負担を減らそう。
そのためには?
手帳でしっかり管理しよう。
意識の上でも。

あと資料はもう少しスリムにできる。



今日の勉強内容 [2009年11月17日(火)]

問題と課題の違い。
問題=それがあったらやばいよねってこと。
課題=問題を解決に導くための方策。「〜しないと問題は解決しない」

考える事の大事さ。
問題にたいして、「こうしたらいいんじゃないか」と前へ前へ考えるのは間違っている。
問題にたいして、「なぜそれは起こっているのか?」「どうして解決しなきゃいけないのか?」「解決すると何が起こるのか?」と逆へ逆へ考えるのが正しい。
問題の本質を究明するためには。

そうして練り上げられた問題、ないしは課題は、誰が聞いても納得する内容を包含する。

紙に落とし込むことの大事さ。
考えているだけでは忘れるから。

営業は、相手に、2段階のインパクトを与えるべき。
@現状じゃやばいね
Aやばい現状を打破するために、この商品を使わなきゃいけないね
ここを納得させる。


人生観はどう生まれるか [2009年11月02日(月)]

人の人生観は、結果論にすぎないと思います。

その理由は、誰しも今までの経験=人生を証拠として人生論を語るからです。

例えば苦労ばかりしている人が「人生はなかなかうまくいかない」あるいは借金地獄から企業して抜け出した人が「人生はあきらめなければうまくいく」と言うように。

苦労ばかりしている人が「人生に苦労なんてない」と言ってもその主張に説得力はありません。

自分の経験に対する自分の解釈なんていうものは、それほど主観的なものはありません。

それでもなぜ人は今までの経験=人生を証拠として人生論を語るのでしょうか。

それは、誰しも自分の人生を肯定しないと生きてゆけないからだと思います。
自分の生き方を否定しながら生きることほどつらいことはありません。

誰しもどこかで「これでよかったんだ」と自分の理想と現実=人生に折り合いをつけなければ、気持ちよく生きていくことができません。

人はそこで人生観という真理を得た気分になりますが、実際には真理ではなく、主観にすぎません。

でなければ、全く違う人生観の持ち主がいるという事実の理由をうまく説明できません。

つまり、人は「人生の真理を見つけた」というよりは、「そういうものとして人生を捉えるようになった」という方向に向かっていきます。

なぜ私がこんなことを考えたかというと、先日訪問したお客様がとても自分と相容れない人生観を持っていたからです。

例えば「人生なんて辛いことからいかに逃げるかだけだ」「一生懸命やるやつは馬鹿だ。いかに楽して稼ぐかだ」。

このような主張は正しいとも間違っているとも言えませんが、少なくとも私とは異なっています。

おそらくこの方はそう考えるきっかけが人生に多く存在していたのでしょう。

裏を返せば、私が「人生はばら色だ」「生きているだけでもうけものだ」と考えているということは、そのような人生を送ってきたということになります。
もしくは、そう考えざるを得ない状況が人生にあったということになります。

ただ、今後私の人生観が経験によって変容することもあるでしょう。
今の人生観と全く異なるものになる可能性もあります。

しかし私としては、決して今の人生観を曲げたくありません。

自分が誇れる人生観を持ち続けるためにも、日々頑張って生きたいと思います。


時間〔量〕 [2009年01月12日(月)]

人は時間を過去から未来へ向かう直線というアナロジーで捉えているが、必ずしもそれは至当ではないのではないか。

時間というのは一つの次元であると解するならば、直線が内包する量の概念はむしろ3次元に属しているということからして、ここにおける混同は次元としての独立性を奪うからである。

中世では時間を円環するものとして捉えていたという。
近代以降はそれを直線的に捉えることが一般的になったというが、ここでの両者の捉え方がそれぞれ可能であると一般に流布していたことから、やはり時間はこのどちらでも捉えきれないのではないだろうか。これに対する反論として、それは単に時代が流れることによる進歩だとか、啓蒙だとか、その他このような要因を持ち出すことが考えられるが、私にとってはこのどちらも一定の意味での妥当性を認めうると感じられる。

「その他の形においてもありえるもの」である以上、学的な定義とはなり得ないのであって、従って時間の概念は十分であるとはいえない。

かといって時間を十分に表す語彙は存在しない。ここにまず、少なくとも今の段階での言語の限界が露呈される。

では新しい語彙を生み出せば事足りるのか?
時間がどのように捉えうるのか考えてみると、まず、結局一般に言われる過去も未来も存在していないものであることが思い浮かぶ。

では現在は存在しているのか?少なくとも私達が捉える限りにおいての時間はある地点、ある現在だけであって、過去も未来もその類型にすぎない。

してみると現在は単に非連続的な点としてしか捉えられない。
しかしこれではまだ不十分に思える。時間は否応なく流れているとの感覚を私達は禁じえないからである。

しかし流れているものとしての捕捉は点というそれと矛盾する。
従って、時間はその両者を否定し続け、反復し続けるものとしてしか捉えられない。ここに知覚の限界が露呈する。

しかし客観的世界があくまで知覚による主観的世界の中で構築されているのだとしたら、つまり世界は各人の意識の中にしか存在せず、その中で完結しているのだとしたら、人の数だけ世界が存在することになり、時間の定義は各人の中で、外部によるその対象への概念的接触を含めて、完璧なものとして既に定式化されているとも考えられるかもしれない。それが流動的なものであっても。

時間の質についても広く一般的な捉え方とは異なる捉え方が可能かもしれない。





逃げるか、超えるか [2008年11月27日(木)]

苦難を避ける安楽より、苦難を超えた達成感の方が、10倍も価値があることは、誰でも知っている。

だが、おかしなことに、いざ眼前に苦難がたたずんでいるときには、

それを避ける安楽が、それを超える達成感の10倍も価値のあるように思える。


問題とは [2008年11月08日(土)]

一般に問題と言われる概念は、私達にとっては忌避すべき対象であり、
うなぎのぼりの人生を頭打ちにする要因であり、
一方で外界と隔絶された自己を回復する可能性であり、
思考の枠組みの作成の手伝いであり、
従って一般に言われる社会において欠くべからざる各人の手続きである。

問題とは当該社会の支配者によって都合の悪いものが与えられる烙印であり、それが社会の一定範囲に波及したときに、その都度一段階下位のレベルで否という烙印が押され続けるのである。この意味で問題とは生成・消滅し、循環する。

しかし普通は問題という枠組みを与えられる概念は循環というイメージを私達に与えない。というのは、外見上そうであるからである。
いわば一秒に何十回も点灯と消灯を繰り返す蛍光灯が絶えずそこかしこを照らし続けると私達が感じるのと同じである。

問題は常にその大きさがものさしとなって語られる。何をもって大きいとするかは場合によりけりだが、大体において金銭と人間関係にそれは収束する。

しかし、実はこの場合、問題に関して言えば、大きさという概念は本質的な意味を持たない。
むしろ、自分にとってのその距離が重要なのである。

問題とは、時間軸に沿って移動する様々な大きさを持つ球体のようなものである。
人々はそれを自身と共に動く極大化・極小化するものと捉えがちだが、そうではなく、ある地点に自分が動かず立っていて、彼方から球体が近づいては遠ざかっていく、まるで駅のホームにいる自分とやってくる電車のように捉えるのが肝要である。

このように捉えることで、大きいときに単に耐えるのみを考えるのではなく、やってくる電車に対して距離をとるという方策がとれるようになる。

問題に対して耐えるのみを考えるとき、即ちそれが極大化しているとき、人はこの世の終わりのようにふるまい、我を忘れてうろたえる。
しかしそれは愚かである。
電車が近づいたら、風を受けないように距離をとればいい。その上で問題解決の施策を考えればいい。




冷静になったところで解決できなくても、結局それは時間と共に過ぎ去っていく。


自明な存在への警鐘 [2008年10月11日(土)]

透き通る明晰性はいかに生れ得るか?

人間は偏見から逃れ得ない、もはや偏見の産物である。
その偏見を醸成し得るところの幼少体験、即ち構造的暴力。それに対する我々の社会学的無意識。いわば、四肢の自由を奪われて二重に投げ出された存在。

ひとえに我々はそのような段階を超過する必要性がある。即ち価値の理論的、体験的相対化を目指すべきである。そのような地平に立つにあたり、我々は生物学的領域に踏み込む必要がある―限界にまみれた細胞。逃しがたい感情。現前の現実はあくまで我々がそうであると認識しているに過ぎないのであって、決してあるがままにそうなのではない。生物学的限界。脳に対する懐疑。それが求められている!無為な認識の危険性。

我々は外界からの刺激に対し直ちに、直線的に、自動的に、反応するのではない。2つの段階の存在。刺激に対する反応の自由性。ここにおける能うかぎりの認識の明晰性。フランクルによる例証。

従って、我々は偏見を、それが生み出す刺激の変容を強いる圧力を、生物学的に、社会学的に、経験的に相対化しなければならない。この並列が喚起するところの経験の重要性。これを妨げるもの、並びに偏見を生み出すものを、我々は、構造的暴力と呼ぶ。

これらを第一に理論的に、第二に経験的に相対化する地平への接近を果たしているとき、我々は自身を信じることができる―意外な福音。それに伴う歓喜。ここにおいて透き通る明晰性が了解される。

我々は、自明な存在ではなく、判断し、掴み取る存在でなければならない。






限界、本質、一般、それらの関連 [2008年10月05日(日)]

 自身に一つの限界を設け始めてはいないだろうか。それはうつろいゆく自信であり、一般的話題であったり、感性であったりする。

それはすごくもったいないことだ。

それは、成長を達し得ない要因に生み出されたところの、「ある種の限界を生み出すもの」がその中身を失い、形だけ残って、成長を達し得ない要因が解消された後もそこに佇んでいる、ということだからだ。

上段のことは、「うつろいゆく自信」について言える。

また、「一般的話題」については、自身にとっての価値が逓減した。「感性」についても同様のことが言えなくもない。

本質的価値(と自分が考えているもの)に自分の視野を据え置こうと移動を試みるのはいいが、それでも眼前に一般的価値(と自分が考えているもの)は存在している。それに基づく評価も、それの枝葉としての一般的話題や、振る舞いも重要要素として在る。なぜか?

それは誰も他人が本質的価値を直視して価値を置いている、という確信が持てないが故に、表面的に表れる一般的価値に基づく振る舞いや態度といったもので本質的価値の存在を類推することでしか、その確信に至る道程を得ることはできないからである。

上記の現実がある以上、自身に設けられ始めている限界は不都合を生じさせうる、本質的価値の発揮においても。従って、本質と一般の位置づけを理解したうえで、一般の発揮に注力すること自体、自身の軸を外れているとは言えない。

但し、一般的価値の発揮と言っても、それはあらゆる地平に水平に並べ立てられているのであり、決してれんがを積むように垂直に、それぞれの価値に等しさが見当たらないというわけでは決してないのだ。

従って、本質的価値の醸成を自らが望むのならば、一般的価値の醸成が必要であり、そのためには、自身に設けられ始めている限界を何らかの方法で打破する必要がある。


克己 [2008年10月04日(土)]

今日は同じ会社の内定者の友達と二人ですごいいろいろ話した

彼とはすごく話が合う。初対面の開始5分でもう絶対こいつ話せるって分かった

てか、話が合うな、って人と、合わないな、って人がいるけれども、自分の場合はそれは、論理が先か、感情が先か、という問題に還元される

自分は感情が先にあって、それを伝えるための手段として論理を用いるけれども、自分の伝えたいことをすべて言葉や論理にすることはできない、要は枠組みからはみ出している部分が多くある

それがある人にとっては論理の飛躍のように捉えられることもある

一方最初から枠組みにはめたきれいな考え方をする人もいて、そういう人と話しているとお互いにかみ合わないことが多い

同様の感性を持っている人と話すのは楽しい

そういうわけで、彼とはすごく話が合うって話をしていた

彼とは人生において一分一秒を無駄にできないという話、なぜなら死は思ったよりいつ訪れるか分からないから、をしたり、まわりをどうこう言うよりも自ら動いて変えていくのが大事という話をしたり、全てのことと正面から向き合うことの重要性について語ったりした

特に最後のやつは、結局のところ他人はごまかせても究極的に自分はごまかせないわけで、自分に自分を信じさせるような行動を、自分をごまかさない行動をし続けることが、自分自身に対する信頼残高を増やしていくという重要な行為に繋がるからであるという意味で、すごく盛り上がった

最終的には、手段の目的化こそが恐れるべきものだという話に落ち着いた

なんのためにこれをやるのか?という問いを終生問い続けなければならない

なんのために生きるのか?客観的な意味が存在しなくても、自分でそれを意義付けることが大事

最終的に自分が納得のいく死に方をできるように、全て自分の行動をそこに紐付けて考えることが肝要だと思われる

幾分具体的な話もして、お互い地域コミュニティの活性化にすごく興味があるのだけれども、そのために必要なのは各地域におけるアイデンティティの形成であり、そのために必要なのは地域住民が自らの地域を見つめなおし、魅力を再発見する環境であり、自分達に出来うることはその見つめなおす環境の整備であり、その手段のひとつがアートであり、ということだった

単に経済的発展というひとつのものさしで地域を捉えても、それは相当に浅い話になってしまう

感情の発露、それを促す環境設定をやりたいね、ってことをかなり熱っぽく喋っていた。エクセルシオールで

何より、変えるのは自分、自分次第で何でもできる。靴が作りたいってだけで単身イタリアに渡って、数年経って今ではイタリアにおける靴作る日本人の中で2番目くらいに有名になってコンバースとか色んな会社と共同作業している人もいる

それはその彼の友達の兄貴なんだけれども

足りないのは意志と勇気だけだ、と思った

ともかく、こんな深遠な話ができる仲間がいるという意味で、今の会社でよかったーって思った

浅ましい考えだけはしたくない、最近そんな会社ばっかりだけれども

これでまたモチベーションが上がった





それにつけても最近、自分に打ち克つという言葉の重みと意義を感じる



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